壽々呂のたわごと                                  
 
私にとってのフォト俳句のあり方について、つれづれなるままに書き綴ってみました。

 

 

フォト俳句とは何?
 
そもそも俳句とフォト俳句の違いとは何でしょうか。
元来俳句は、俳句で詠まれた情景は鑑賞者の自由な想像に委ねられているものです。それを、フォト俳句は情景を写真で示すことで作句者の描いたイメージを強引に鑑賞者に押しつけてしまうというもの。これが両者の最大の違いと思っています。
 
だとしたら、昔から俳句には俳画というものがありますよね。これも同じではないのかという疑問が起こります。でも違うんです。俳句に絵柄を添えるという点では同じですが、俳画はよく観れば、俳句の内容をなぞっている絵柄がほとんどでしょう。フォト俳句にも句で詠んだ情景をそのまま写し取ったような写真を添えた作品があります。(実は、私の作品にはそんなのが多いです) もちろん、それもフォト俳句ではあります。
しかし、私の尊敬してやまない写真家で俳人の中谷吉隆氏はおっしゃるでしょう。
「そんなのはフォト俳句じゃない!」と。
 
中谷吉隆氏からの受け売りになりますが、フォト俳句とはフォト+俳句ではなく、フォト×俳句なんだと。それを氏は写真と俳句のコラボレーションと表現しています。そして、その本質は単なるコラボではなく、写真と俳句が互いに共鳴しあうというハーモナイゼーションを多分に含んだコラボであらねばならないとも申されています。
 
写真専門誌「フォトコン」の誌上で中谷氏が主宰するフォトハイ句!部門へは私も毎月投稿していますが、ここでは俳句と写真が共鳴しない、つまり響き合わない作品は即刻「没」になります。「響き合う」兼ね合いが難しいのです。氏はこのことを「不即不離」と表現しています。つまり、付かず離れずの関係と言いますか、でも、俳句と写真が付かず離れずの関係ってどういうことでしょう。実際、難しいのです。投稿された入選作品を見ると、ちょっと見にはよくわからない作品があります。どうしてこの俳句にこの写真なの?・・・と。でも、氏に言わせるとこの両者は響き合っているということになります。
要は、深いんですよね。だから、冒頭、作句者のイメージを押しつけるのがフォト俳句なりと述べましたが、作句者からイメージを示されても鑑賞者が「何だ、これは?」と困惑してしまう作品もときにはあります。しかもそれが中谷氏の審査のメガネに叶っている場合などに遭遇すると、私なんかまだまだフォト俳句という山の麓をうろついている初心者に過ぎないなぁと、山の高さとその深さにため息をもらすことになるのです。
 
フォト俳句の条件がもう一つあります。
フォト俳句のハードルが高いことの証左として中谷吉隆氏は言います。写真も俳句も一級品でありそれ自体が単独でアートとして完成品でなくてはならないと。その上で二つのアートが合体して響き合う作品こそが理想のフォト俳句なのだと。
そこで問題になるのは、響き合うのは俳句か写真か、どちらでしょうか。
これはどちらかと言えば、俳句よりも写真のほうに響き合う内容が込められてないとダメという意味でしょうね。私達は日本人ですから、幼い頃から俳句には慣れ親しんでおり、俳句の良し悪しは先天的に嗅ぎとれる体質を持っています。だから良い俳句ならば、写真に合わせて句の内容を変えるなんてことは考えられません。そのときは写真に響き合うものを求めることになります。
 
しかし、私の場合、それでは困ってしまうのです。プロフィールにも書きましたが、私の作句スタイルはほとんどが「先写後俳」。写真が先にあります。つまり、写真は固定されていますから、俳句のほうに響き合う要素を織りこまなくてはなりません。難しい話です。だからでしょうか、私の多くのフォト俳句は写真の情景を説明する句になり、写真は俳句の描く情景をなぞる写真にならざるを得ないという所謂「俳画」的なフォト俳句へ陥り易い弱点を抱えているのです。
 
そこで私としてはそうならないよう、俳句のほうに響き合う内容を盛り込むべく苦吟するわけですが、それでも俳句と写真が響き合わないままに推敲の1ヶ月間が過ぎることもしばしば。フォト俳句としての完成品ではなく所謂仕掛品状態のままフォトコン誌へ投稿してしまい、結果「没」を賜わるという茶番を繰り返すのが最近の常となっています。
 
その仕掛品状態の没作品もこのフォト俳句集に収納しました。それは完成品へのプロセス途中にある中間報告の意味もあります。そしてそれは、仕掛品が工程を進んでいくようにいつの日か同じ写真に別の句が添えられたり、同じ句に別の写真が添えられたりして、少しでもレベルアップした作品に生れ変わる可能性を秘めているということでもあります。
そのどちらであっても、少しでも完成度が上がった作品になったなぁと私が思ったときは、このフォト俳句集の中の当該作品をその完成度を上げた作品へと都度都度差し替えて行こうと考えています。そういう「敗者復活戦」的なチャレンジを何回も出来るのが、俳句と写真のコラボで成り立つフォト俳句だからこその面白いところかもしれません。
 

 

 

そして、私のフォト俳句への思いのたけ
 
先ほど述べたフォトハイ句!部門の入選作品の中には、俳句はいいけれど私から見ても写真はイマイチと思える作品があります。そんな写真が果たして単写真として他の写真コンテストで入選するほどの力作なのかなぁという点で私はしばしば疑問を感じています。
しかし、そこはそれ、まだ日の浅い新しいアートのフォト俳句ですから、フォト俳句普及のために今のところは写真よりも俳句のほうに若干軸足を置いて審査されているものと勝手に解釈しているところです。
 
たとえ俳句と写真が高度なレベルで響き合わないとしても、フォト俳句に於いて俳句の鑑賞者が自由に描いた情景イメージと同じような情景写真がズバリ示された場合には、ストレートにわかり易いし、納得も出来るというものです。
俳句で詠んだ情景そのままの写真を添えたフォト俳句なんて・・・と中谷氏からは一喝されそうですが、私自身のフォト俳句もまずはそんなところから一歩一歩高みへ登っていこうと思います。
 
そして、もう一つ心がけたいことは、誰にもわかり易いやさしいフォト俳句を作ろうと思っていることです。たとえて言えば、小林一茶のような平易で普遍的な情景描写を究められたらと思っています。そんな俳句と写真であっても、その組み合わせからある種の感動らしきものが感じとれたらそれでいいじゃないか、まずはそんなところから私は歩きはじめています。
 
そしてやがて俳句と写真が響き合うような作品創造の境地に辿りつき、私、清白・壽々呂 (すずしろ・すずろ) が独自に描くフォト俳句の世界をさらに広げられたなら・・・と夢を膨らませつつ精進してゆこうと思います。その私の夢。それは120点のフォト俳句を完成させることです。私の作句ペースから言えば、10年間を要する大プロジェクトとなります。他方、写真撮影に於いても撮り続けることで、それなりの作品を120点創り上げないといけません。「継続は力なり」を信じて、じっくりとマイペースで楽しんで行ければと思います。
 
なお、私はフォト俳句という言葉を使用していますが、世間では写真俳句、フォトハイ句、フォト五七五・・・等々、その呼び名も様々のようです。ただ意味するところは同じであっても、不即不離、響き合う関係、そして俳句はそれ自体で完成度が高く、写真も単写真として完成品であること…等々を提唱しているのは中谷吉隆氏のフォトハイ句だけと思われます。この中谷氏の教えをベースにして、より高く、より深い清白・壽々呂独自のわかり易いやさしいフォト俳句の世界を形成していければと願っています。
 

 

 

この風景写真が伝えたいメッセージはそれだけか?
 
写真に於ける被写体の王様は風景写真と思います。
そして、風景写真にかぎらず作品レベルの写真には必ずタイトルが付されています。
それでは、風景写真のタイトルを思い浮かべてみましょう。例えば、手近にある写真雑誌を開いてみると、ありますねぇ。「静寂」、「晩秋」、「異空間」、「山里伝承」、「樹木彩響」、「爽朝の水辺」、「万華鏡」、「滝風薫る」、「春うらら」・・・タイトルにはその写真に対する撮影者の思いが凝縮されているはずなんですが・・・。でも、うーーん、どの写真雑誌の入選写真や特別寄稿作品を見まわしても、タイトルは何となく似たり寄ったり。撮影者の語彙の浅さというか、深さと広さの無さには唖然とさせられます。
 
近年、ある風景写真家がタイトルの付け方と題してシリーズで書いていた記事がありました。その中での究極の付け方は「造語」の勧めでした。造語!! その風景にふさわしい単語を集めて例えば四字熟語のごとく組み合わせて造るのです。先の例示で言えば「樹木彩響」のような具合になるのでしょう。つまり、これは風景写真ゆえの問題なのだと思います。風景写真のタイトル付けはもう限界に来ているのではないかと思いました。
 
だからこそ、風景写真×俳句はどうだろうかというのが今回の「たわごと」の趣意なんです。風景写真をベースにしたフォト俳句であれば、その風景写真に一層の深い味わいを添えられるのではないか。最近の私のフォト俳句はそんな切り口で風景写真を多く取り上げるようにしています。
 
フォト俳句と言うと写真と俳句の響き合いが求められるところから、必然的に抒情的、心象的、官能的、果ては抽象的な被写体又は題材に傾きがちですが、写真のほうに重点を置いて眺めてみた場合、写真の王道たる「風景」が俳句の相棒としては、どうも置き去りにされている感がしてなりません。
 
フォト俳句では、俳句作品と共に添えられた写真作品にも完成度の高さが要求されます。ということは、写真愛好家にとって最も馴染みがあり、又、撮りやすい被写体でもある「風景」が、実は写真として完成度の高い作品になり得る一番近いところにあると申してもいいのかもしれません。その完成度の高い風景写真に響き合う俳句を添えられれば、その風景写真には陳腐なタイトル以上に深い味わいの滋味が醸し出されるのではないでしょうか。
 
だから私は、無機質に近い風景写真に俳句という調味料を落としこむことで「風景写真×俳句」という有機物に変えられるのではないかと、更には風景写真と俳句が響き合うことで写真単体以上の感銘を鑑賞者に与えられるのではないかと、そして、それは単なるタイトルを付した写真では行き着かない撮影者の真のメッセージとして鑑賞者にアピール出来るのではないかと考え、しばらくはこんなことにもチャレンジしていこうと思っているわけです。
 
それにしても、写真と俳句の「不即不離」の関係、そして「響き合う」ことの何という難しいことか!
しかも、それを風景写真に求める私のチャレンジはほとんど暴挙なのかもしれません・・・。
 

 

 

情景写真はモノクロで撮るべし
 
実は、本ホームページの第1回フォト俳句集の4番目の作品「ポスターの放つフェロモン夏来たる」がエプソンフォトグランプリ2011のヒューマンライフ部門で準グランプリに選ばれました。
 
審査の先生方の講評に曰く、フランスの写真家ロベール・ドアノーの「パリ市庁舎前のキス」を彷彿させる作品という感想をいただきました。さらに、審査の先生によれば、ドアノーの作品は自然に撮影されたものでなく、写真に写っている主人公の二人はおろか、通行中のたくさんの人々まですべてがドアノーの演出によるものとのことでした。その点、私の擬似 ドアノー作品はまったくの偶発的な一瞬を捉えたものであり、そこが本家ドアノーとは一線を画す独自の作品であるとの過分なる評まで賜わりました。ただ、フォト俳句好きな私としては、俳句仕立てのタイトルにした点にも何がしかの効用があったのではないかと密かに思っているところです。
 
折りしもドアノー生誕100年を記念したロベール・ドアノー写真展が東京都立写真美術館で開催されておりましたので、さっそく本物の「パリ市庁舎前のキス」と対面してまいりました。ついでにドアノーの得意とするパリ市内の情景を写し取った作品群にも浸ってまいりました。パリ市庁舎前のキスをはじめとするほとんどの作品はモノクロでした。もっともドアノーの活躍した時代はモノクロ全盛期でありそれが当たり前なのですが、晩年期になってようやく彼によるカラー作品も散見されるようになりました。
 
そして、彼が写真家として注目され始めた初期の作品から彼の晩年までを時系列的に並べられた展示作品を観ていたときのことでした。モノクロからカラーの時代に突入した頃の彼のカラー作品を観ていたそのときです。突然、私の頭の中で天啓を受けたかのように何かが炸裂したのです。
 
そうか、情景写真はモノクロなんだ。
 
ドアノーはカラーフィルムを用いるようになってからも、それまでと同じ視点でパリ市内の情景を写しとっています。しかし、違うんです。カラー作品では情景がまるでサマになっていないのです。
つまり、そのカラー作品には観る者へ訴える力が明らかになくなっていることがわかるのです。人々の生活を写しとるという目的は同じでも、人物に、背景に、空に、色彩が付くとまったく迫力がなくなるのです。
ドアノーはそのことに気がついていたのか、いなかったのか。
 
「そのこと」、つまり、情景写真はモノクロで撮ってこそ訴求力が生まれるということ。もちろん、こんな短絡的な見方は大方の人には受け容れられないでしょう。でも、私にはドアノーの生涯に一貫したパリ市内の生活情景を写しとっている写真群を観るかぎりに於いて案外妥当な結論ではなかろうかと思っています。
 
色を持たないモノクロだからこそ余計な情報を提供しないこと、余計な情報がないからこそ鑑賞者をして作品が訴える目的に集中せしめる作品力が生まれるのだと思いました。
「情景写真はモノクロで撮るべし」・・・これが私の一つの結論です。
 
 
ついでながら、「たわごと」をもう一つ。
それでは、「情景写真」と所謂「風景写真」の違いって何でしょうか。
私は、情景写真とは流れているストーリーの一瞬を切り取ったものであり、風景写真とはストーリー性のない景色の一断面であると理解しています。ただ、前項の「この風景写真が伝えたいメッセージはそれだけか?」に於いて、私は敢えて風景写真に俳句を添えることを提案しました。風景写真がそのままではストーリー性のない景色の一断面の作品で終わるところを俳句とのコラボにより、風景写真だけでは想像できなかった写真の裏側に潜むストーリー性を引き出すことが出来、フォト俳句として成り立つことを試みたかったからです。純然たる風景写真であっても、添える俳句との響きあう関係が作れるならば、フォト俳句の重要な素材の一つになり得ると確信しているところです。
 

 

 

あらためてフォト俳句とは何か。以下は現在の私の理解です。
近頃のテレビ番組「プレバト」の俳句部門が大人気です。お題の写真を見て出演者がそれぞれ俳句を詠み、講師の夏井いつきさんの審査で順位が付けられるという番組です。バラエティの一種ではありますが、中身は至極真面目であり多少なりとも俳句をかじっている私にも勉強になります。あるとき、友人から「お前のやっているフォト俳句ってのはプレバトの俳句みたいなものだろう?」と言われましたが、私は即座に否定しました。何故なら、あの番組で取り組んでいる俳句は純粋に俳句だけの俳句だからです。お題の写真が提示されているからといっても、それは普通に景色や情景を見て俳句を詠んでいるのと同じであり、私のフォト俳句とは違います。いや、そう言っては語弊がありますね。俳句の部分はまったく同じです。純然たる俳句もフォト俳句の俳句も俳句としては何の違いもありません。
では何が違うのでしょうか。
フォト俳句にはフォト即ち写真が付随します。だったら、写真を見て俳句を作るプレバトの写真のように、写真と俳句をセットにして並べればそのままフォト俳句になるじゃないか、というのがさらなる友人の疑問でした。
実は、フォト俳句の難しい所はその写真の付け方なんです。
プレバトは写真を見て俳句を詠むわけです。だから友人は、まず最初に写真が映し出されるので、あの番組そのものがフォト俳句と思われたらしいのです。写真と俳句が揃えばフォト俳句と思われがちですが、フォト俳句はそんなヤワな文芸アートではありませぬ。
この「たわごと」の一段目で、中谷吉隆先生の言葉をお借りして写真と俳句は不即不離の関係が大事と申しました。
私、最近になってようやくその意味がわかり始めた感じになっています。
プレバトの夏井いつきさんは番組の中でよく映像化ということを申されます。プレバトでは写真という映像を予め見せられますから、出演者にはその写真情報が周知のものという錯覚が起きてしまいがちです。つまり、写真を見てない人には出演者が詠んだ俳句を見せられてもさっぱりわからない=映像化出来ない凡作ということになってしまいます。この事例を、逆にフォト俳句に当てはめれば、フォト俳句に於いてもその俳句部分は俳句だけで映像化出来てなければ俳句とはいえないということになります。つまり、フォト俳句の俳句と言えども、俳句は俳句としてパーフェクトでなければならないというのが重大要件となります。
その上で、写真とコラボさせるわけですから、添える写真は俳句の説明であってはいけないということになります。写真が俳句に付きすぎるとそれは単なる説明写真であり、俳句で映像化されている内容を更にダメ押しするだけの意味にしかなりません。
「たわごと」の一段目で、私は俳句の鑑賞者に作句者のイメージを押し付けるのがフォト俳句であると書きましたが、これは大きな間違いでした。いや、イメージの押し付けには違いないのですが、俳句で映像化されたイメージの更に奥底にある作句者にしかわかりえない心象的なイメージとでも言うのでしょうか、そういうものを写真として添えることが必要なのです。
単に俳句を鑑賞してもらうよりも、より深い作句者自身の感動を鑑賞者に届けるのが写真を添える意味…というのが、フォト俳句の真の在り方、ひいてはこれがフォト俳句の真の定義になるのではないか、と思うのです。
そういう視点でこれまでこのギャラリーにアップした拙作を振り返ると、ただの説明に終っている写真のなんと多いことか。逆に、俳句を見た場合、映像化されてない語句の使い方や無駄な言い回しのなんと多いことか。こんな有り様でこれまでフォトコン誌のフォトハイ句!に投稿していたのかと思うと、拙作が中谷先生の目に留まらないのもさもありなんと納得せざるを得ません。
今までの俳句、そして写真にも安易な気持で立ち向かっていた己の姿勢を本日ただ今より悔い改め、これからは最初に己に課した1ヶ月1作の方針の下、より深いところでの感動を表現した写真の提示と共にとことん納得出来るまで重ねた推敲の結果等々熱き作品作りに励みたいと決心しているところであります。
それにつけても、この「たわごと」の一段目に書きましたが、中谷先生のお考えである「俳句も一級品、写真も一級品が理想のフォト俳句なり」のお言葉は、写真の添え方がわかってくるに従い、先生の申される一級品の意味=フォトコンテストに入賞するレベルという「写真も一級品」の「縛り」の何と難しいこと!!
そして、「たわごと」の三段目にうっかり述べてしまった「風景写真からフォト俳句の写真素材を見つけよう」の提言は、不即不離の距離感が理解出来た今、さらにフォト俳句を難しくさせてしまったとの後悔が残ります。それでも、一級品たる風景写真を俳句の説明写真に終わらせない不即不離の工夫をこらすならば、何とか理想のフォト俳句への道も拓けてくるのではと思います。この方向でのフォト俳句完成をもう一つの目標に据えながら、さらなるフォト俳句の高みを目指したいと思います。

 

今さらですが「フォト俳句」というネーミング考
「壽々呂のたわごと」をお読みくださっている皆様へ、
「俳句界」という俳句専門誌をご存じですか。そして、最近同誌に掲載されたフォト俳句特集記事を読みましたか。
俳人、作家、写真家…が入り乱れてのそれぞれの主張を唱えて、いやはや大変なことになっているようです。
そんなきっかけから、私は「フォト俳句」というネーミングについて考えてみました。
写真俳句、写俳、フォト五七五、フォト×俳句・・・等々、雨後のタケノコのごとくさまざまな呼び方が乱立する現在ですが、そういう中でも、このフォト俳句のことを写真家の浅井慎平さんは「ハイクグラフィ= Haikugraphy」という洒落たネーミングで呼んでいます。名称こそ違いますが、定義的にその立脚点は私の指南役である中谷吉隆氏が提唱する「フォト俳句」のそれとほぼ同じに思えて共感出来ます。
しかし「ハイクグラフィ」はいただけません。
ひねり過ぎていて馴染めません。
その点、今や国際的に通用するハイクと日本人にも理解出来るフォトを組み合わせた「フォト俳句= Photo-haiku」は、我田引水かもしれませんが絶妙と思われます。他方、ハイクとフォトグラフィの合成語と思われるハイクグラフィは、さすが浅井さんならではのアカデミズムが感じられる命名ですが、世界中の人々がみんな浅井さんと同じレベルの知力をお持ちとは限りません。 私にはハイクグラフィよりフォト俳句のほうが素直にそれが何であるかがわかる気がいたします。
ちなみにこの俳句専門誌の特集のタイトルも「フォト俳句」と銘打っており、恐らく「俳句界」同人の皆様も「フォト俳句」を適正ネーミングと認識されているものと思いました。
ネーミングばかりでなくその作法や手法等々にかかわる現状の混沌は黎明期の新しいアートがぶつかる通過点の一つとも思えます。 侃々諤々の議論もフォト俳句認知のためには喜ばしいプロセスなのかもしれませんが、ネーミングに関しては、私個人的には「フォト俳句」が妥当解ではないかと思っているところです。
さて、皆様方のお考えはいかがでしょうか。